店主日記

  • 海はさざ波だけれど 2025年07月24日

     定休日だった昨日、出雲市の病院に息子を見舞った。予定は満載だが、せっかくの水曜日の定休日、少しは楽しもうと思って道の駅、「キララ多伎」に行った。ガラス戸越しに海を眺めると、数人の家族連れが泳いでいるのが見えた。海はほんの小さなさざ波が寄せる程度、冬の海と全く違う日本海らしい、夏の海を見せてくれた。

     

    静かな海

     

     しばし眺めた後、出雲大社の山門前を通って帰路についた。午後1時、松江イオンに着いた。ETMコーナーに行った。仕事用の支払い、家庭の支払い、保険の支払いの通帳の調整をした。そして事務所、昼食のパンをかじりながらパソコンに向かった。アパート大手管理会社から届いた契約書をプリントした。弊社の詳細をかき込んだりして2時間を費やした。25日の広島行きの準備なのだ。

     

     3時半、いつものスーパーマーケットに出発。さて今晩は何食べようかと思案する。名案が浮かばない。何とかなるさと思い、とにかく1週間食べれそうな野菜肉を買った。いつものレジの女性、目が充血してるけど、大丈夫、と心配顔。うん、病院行く間が無くてね。帰宅してシャワーを終えてやっと夜の献立が決定、お好み焼き焼こう。娘が付け替えてくれたrリビングのエアコンは、卓上コンロにも負けやしない。

  • 朝から気温30度 2025年07月21日

    のぼり旗2 朝8時前のNHKテレビが言った。松江市の気温はもう30度に達したと。暑いなあと、ふと外を見る。真夏の太陽が店頭ののぼり旗を焦がしていた。そう言えば暑すぎるからだろうか、先日聞いたニイニイゼミの初音、以降聞けなくなった。ヒグラシの初音も数日前に聞いた。それも以降聞いていない。

     

     外での朝一の仕事を終えて事務所で汗を拭いていたら電話が鳴った。息子が入所可能な施設からだった。明日そこの職員が息子の様子を見に行ってくれるらしい。その後、同施設で話し合いを持とう。その日時を連絡をするとのことだった。有難いと思った。前進してほしい、そう思った。

     

     今日は海の日、まだ3人の子供が小さい時、私の務めは祝日は休みだった。何日も前から、海の日どこへ行くって夜の食卓の話題だった。そして家族そろって、その日は海水着持って出かけた。5人して、浜辺ではしゃいだ。ビニールシート広げて、弁当を頂いた。楽しかったあの日々はもう帰って来ない。けど盆には妻の生まれ変わりの孫が帰って来る。

  • こんなこと書きたくはないけど、書く 2025年07月15日

     この神聖な店主日記にこんなことは書きたくない。こんな汚いことは書きたくはないが、どうも腹立ちが収まらないから書く。

     

     ある入所施設に、重度の自閉症の息子は10年余り入所していた。ところが施設は突然、人手が足りない、自閉症に対する職員のスキルがないと言い出して、ついに入院と言うことになった。10年余りも黙っておいて、突然、そんなことを言いだした。息子の状態が悪くなったと言うなら仕方ないが、何一つ、変わっていない。むしろ成長した方だと思っていた。人手がない、スキルがないと言うなら、なぜ、入所をさせたのか。人手がない、スキルがないと言うなら、入所後半年ぐらいの時だろう。そして、新しい、息子にふさわしい施設が見つかるまでは責任は持ちます、と、そう言うべきだっただろう。それが、入所を許可した施設の責任だろう。債務だろう。

     

     私は、息子を思う妻の気持ちを分かってやれなかったのかもしれない。ごめんな、なぎさ、と今後悔している。息子の入院日の前日、妻は不安げに、明日の病院へは何時に出発したらいいかなあ、と、私に言った。どうして私はその時、俺も一緒に行くよって、どうしてそう言ってやれなかったのだろう。その2時間後に、妻は倒れた。そして明くる早朝、息子が入院するその日、意識の回復しないまま、ひとりあっちに行ってしまった。入院する息子を思う辛さが、妻を苦しめたのだろうと思う。血圧が上がっての脳出血だった。

     

     息子は入院したまま、すでに7年余りが経つ。そのストレスからだと思う、自傷行為が始まった。そのためにベッドに身体拘束されて9ヶ月になった。見舞う度に胸が苦しい。夜、夢を見る。身体拘束された息子の夢を見る。そして、うなされて目が覚める。心が張り裂けそうになる。もう、二度と眠れやしない。

     

     昨日の夕方、その施設の職員がやって来た。松江市に来たから寄ってみたのだと言う。そしてこう言った。お父さん、青年後見人制度利用しないですかって。馬鹿にするなよ。ふざけんなよと、心で叫んだ。意地でも、新しい入所施設が決まるまで息子の席はお前の所に置く。お前たちの施設の収入を6万円減らしてやる。それが人でなしに対する、俺の意地だ。妻と息子と俺との3人での敵討ちだ。こんな無責任な施設、俺ん家を不幸にした施設、無くなってほしい。

  • タアタコの味がした 2025年07月14日

     私が子供の頃の我が家の風呂は、五右衛門風呂だった(正式名は長州風呂)。今では趣味で持つ人もいるようだが、この風呂の名はもう死語になっているのかもしれない。安土桃山の昔、大泥棒の石川五右衛門が釜茹での刑に処せられた。そこからこの名が付いたらしい。

     

    別れ 農家の我が家は、風呂焚きは子供の仕事だった。兄や姉は学校に通っていた。だから夕方が近づくと私がハンド(土器制の大きな水瓶)に溜まった水をバケツで風呂釜に移す。そして薪に火をつける。風呂が沸いた頃、薪は炭火になる。その炭火でトウモロコシを焼く。こんがりと焼いたトウモロコシを丸かじりする。至福の時間なのだ。故郷では、トウモロコシをタアタコと呼んでいた。

     

     キャンプ好きの私はほんの時々。バーベキューにトウモロコシを焼いた。子供たちに食べろと言うが、みなそれを嫌った。肉や魚を好んで食べた。贅沢になったものだなと思った。だがこの前の土曜日の夜、トウモロコシを丸焼にして食べた。至福の時間だった。70年近く振りの味がした。友よ、有難う。坊主よ、有難う。

     

     写真は三瓶山の国引きの丘に建てられていた。八束水臣津野命が余った国を新羅紀の三埼から「国々来々」(くにこくにこ)と引き寄せて佐比賣山(さひめやま・三瓶山)に繋ぎ止めたと言う出雲国風土記の国引き神話から来たもの。ただし、この物語は古事記や日本書紀にはない。逆に、ヤマタノオロチ神話は出雲国風土記にはない。古人には、遊び心があったものだとうらやましい。

     

     午前中私も遊んだ。さあて、仕事頑張るか。

  • 小さな私の友 2025年07月12日

     昨夕、シャワーを終えて缶ビールを飲んでいたら玄関の呼び鈴が鳴った。だれだろうとドアスコープを覗いたら小さな子供。え、どうして子供が。不思議な気がした。裸だった体にシャツを着てとりあえずドアを開けた。え、どうした。私の友がビニール袋を手にして立っていた。

     

     以前1回書いたことがある。妻の一周忌の法要が終わったその日の夕方、自治会の新役員の集まりがあった。始めて見る若いお母さんが赤ちゃんを抱っこして私の隣に座った。幾つって聞いたら5ヶ月だと答えた。来るはずもないだろうと思いながらも手を差し伸べてみた。そしたらやって来た。私に抱っこされるためにやって来た。妻のいない寂しい心に火が灯った気がした。

     

     以来、通勤の駐車場で朝たまに出会う。その度に、手のひらタッチを繰り返してきた。彼と私は良き友になった。私にとってたった一人の男の友なのである。その子が昨夜差し入れだと言って大きなトウモロコシを1本持ってきてくれた。嬉しかった。そして、握手をして別れた。私も農家育ち、慣れたもの、1本丸ごと焼いて今晩食べよう。そう、素焼きが美味しい。トウモロコシのストレートな甘さが美味しい。

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