店主日記
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回復したよ
2024年09月29日
夏も終わって、急に涼しくなって、体調がおかしくなっていた。長すぎた夏のせいかもしれない。気温の変化による体調の崩れかもしれない。あるいは息子の転院の心配のせいかもしれない。体調がすぐれなかった。というより最悪だった。だけどこの3日間の夜はぐっすりと眠れた。
今朝は久し振りにサラダを作って食べた。卵も焼いた。ウインナーも焼いた。食欲が戻ったみたい。あの気怠さもどこかに飛ん行った。他人の体を借りてきたようなあの気怠さは今朝はない。よし、今日は頑張る。頑張れる。なぎさ、安心して空の上から見ていてな。
午前中、今日の予定を終えた。午後、息子の入院の病院に行った。強度行動障害を持った息子、ベッドの上に拘束されている。そうしないと治療ができないから。だけど、動けないその姿が可哀そうで。会いに行ってやりたくて。会って安心させてやりたくて、会いに行った。
じいっと、俺の顔を見ていたよ。手を握ってくれと言ったよ。そして、じいっとおれの顔を見ながらあいつ泣いたよ。母が大好きだったのに、母がいないあいつ。・・・帰りの車の中、かぐや姫が歌う神田川を、赤ちょうちんを繰り返し聴いたよ。「あんたこの歌、好きなんやなあ」。そう言った君の声が聞こえたよ。俺の隣にいてくれたよね。
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道化師
2024年09月28日
先日、以前何度か交換をしたことのある、ある人からメールを頂いた。そして、ある歌を教えてくれた。「歌心りえ」さんが歌う「道化師のソネット」だ。この頃毎朝、日記「かあちゃんの詩」を書き終えてからこの歌をYoutubeで聴いている。そして元気をもらっている。疲れたこの頃には持って来いの歌手と歌だと思っている。
そのある人というのは、松江市からかなりの遠距離の方らしい。もちろん名前も、年齢も、性別も知らない。私には、知る必要もないと思うことがほんの時々ある。写真の花、園芸種なのか、山野草なのかは分からない。先日一人で行った鬼の舌震の遊歩道の脇にひっそりと下向きで咲いていた。美しいなと思った。だけど、名を知ろうとは思わなかった。来年のこの頃、また来た時にそっと姿を見せてくれたらいい。
とは言ったものの、調べてみた。この花の名はシュウカイドウ。夏から初秋に咲くらしい。原産地は中国で、日本に入って来たのは江戸時代の初期だとか。帰化植物だったからだろうか日本の花とは雰囲気が違うと思っていた。ずいぶん以前から鬼の舌震で見かけたから、あの土産店のおばちゃんが植えたのかもしれない。
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稲佐の浜
2024年09月26日
妻との出会いの場所、出雲大社にほど近い所に稲佐の浜がある。この海岸に旧暦の10月、全国の神々が上陸してくる。その瞬間から始まって、空想はどんどん広がっていく。そして、私自身の気持ちが刻々と姿を変える雲のように移ろっていく。やがて、ぼんやりと、生きていく道が見えてくる。
一昨日の夕方突然、息子が転院することになった。健康保険証をもって、出雲市の総合病院に駆け付けた。検査やら、何やかにやを終えて家に帰ったのは夜の9時を過ぎていた。どうしても眠れず、結局深夜の2時まで飲み続けた。
昨日は朝から元の病院で退院届などの手続きを終えた。総合病院の面会時間まで間があった。稲佐の浜に向かった。海を見ながら、思いは巡っていった。どうしてこうも、私には変化が多すぎるのだろう。心がゆれすぎるのだろうと思った。そして結論は前夜と同じだった。深く思い悩み、苦悩の末、やがて解決していく。その繰り返しが私の、一生だろうな。そう悟った。
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またふたりっきりになっちゃった
2024年09月22日
なぎさ、またふたりっきりになっちゃったよ。さっき、9時半に娘親子は車に乗って帰ってしまったよ。長女が運転する赤い車で帰ってしまったよ。今晩から、また俺となぎさの二人っきりだよ。あんなに賑やかで楽しかった数日は終わってしまったよ。また寂しくなったよ。なあ、どうしよう。寂しくってしょうがない。なぎさ、どうしよう。寂しくってしょうがないこの気持ちをどうしよう。
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砂の器・亀嵩駅
2024年09月21日
今日は末娘が松江にいる最後の日だね。長女の提案で奥出雲町にあるサイクリングターミナルの中の仁多米食道に行こうと言うことになった。いつものように事務所を開け、昼前になってみんなで車に乗って出発した。末娘と今日でまたしばらく会えないかと思うと、いやそんなこと考えずに今日いちにち楽しもう。
仁多米食道の鉄板焼肉定食を注文した。味付けも良かった。ご飯が美味しかった。さすがは仁多米食道と言うほどお米が美味い。ご飯はお替り自由ということなのでひとり分だけお替りした。お父さん盛り過ぎだよ。このぐらい、4人いればどうにでもなるさ。
仁多米食道を後にして鬼の舌震に行ってみた。恋吊橋(9月11日のこの日記に登場)渡ろうよ。「こわ~い」と言って孫は渡ろうとしない。母に抱っこされても怖いらしい。真ん中あたりまで行って引き返した。遊歩道には、栗が落ちていた。子供の頃の栗拾いを思い出して少し拾った。
次どこへ行く。砂の器の駅に行こうか。待合室のテレビに砂の器の映画が映されていた。波打ち付ける砂浜を、ハンセン病の父とふたり歩く子供の姿が映し出された。悲しい音楽が聞こえていた。そしてたどり着いたのが亀嵩。良くしてくれた駐在所のお巡りさん。ストーリーが頭の中を駆け巡って行った。
夜のとばりが降りようとする夕方遅く、末娘を出雲空港まで送って行った。搭乗口に入っていく末娘に手を振った。視線から消えるまで手を振った。手を振れば振るほどに寂しさの気持ちが強くなる。会えば寂しい別れが必ずやって来る。だから、帰って来なきゃあいいのに。そう思ってみても、久しく会わなきゃあやはり会いたいと思ってしまう。
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大山
2024年09月19日
その晩、明日どこへ行きたい。という話になった。うーん、みるくの里。だれが言い出すともなくそんな結論になった。東京には米が無くて、ここひと月、米食べてないよ。そうなんだとちょっぴり哀れになった。じゃあちょうど、婿殿の郷から頂いた新米があるからこれ持って帰るか。じゃあ明日9時出発。まず郵便局だよ。新米は我が家が少し頂いて、後は娘のアパートに郵便小包にすることにした。
みるくの里は高原とあって涼しかった。そよ風が優しく頬を撫でていって、草原をはしゃぐ孫の髪をなびかせた。この娘二人と妻と、いつだったか4人でここに来たことがあった。3人の記念写真を私が写した。それぞれに笑った顔の写真が今仏壇の横の木箱に納めてある。タイムスリップしたように、あの時の光景が私の心に鮮やかな映像となって浮かんできた。
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孫が帰ってきた
2024年09月19日
7日の昼前に娘夫婦と孫が事務所に帰ってきて、娘たちが予約してくれていた「味皆美ふじな亭」で昼食を摂った。そして別れて、婿殿はそのままぶらりと列車旅。娘は孫を連れてドライブして夕方まで時間をつぶした。夕方の6時40分着の飛行機で、東京の末娘が出雲空港に帰って来る。長女と孫と、3人で6時に我が家を出発した。
山代町は夕方の気配が漂っていた。玉湯町の空で茜色が広がろうとしていた。自動点灯のヘッドライトが路上を照らしだした。国道9号線は混んでいて、車はのろのろと走った。宍道町に着いたらすっかり夕日に変わっていた。空港の駐車場に車を停めた。ロビーで待っていたら間もなく、到着の人混みの後ろの方から末娘が笑って歩いてきた。
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嬉しい日
2024年09月15日
女性が、こんにちわと事務所にやって来た。いらっしゃいませと言ったら、「E子の娘です」と言う。松江工業高校で、高校生の息子のバレーボールの練習試合があってやって来たと言う。会場のこんな近くにいらっしゃったんですねと言う。めったに会う子でもなかったのに、顔など覚えるはずもなし。最後に会ったのは、5年前、姉を訪ねて兵庫県に行った時だ。そう、彼女私の姪っ子なのだ。
私の兄姉は3人いて、長男は7年前に亡くなった。次男は沖縄に住んでいる。そして姉は兵庫県だ。めったに会える近さじゃあない。それに、私の長男は重度の自閉症を持って生まれた。私自身、大病で会社を首になった。ずぶの素人の私が懸命に不動産業を立ち上げた。これから人生楽しくなると思った矢先、早くに妻を失った。そんな私は心忙しなく、兄姉とも疎遠になっていた。妻の死を知らせないほど、疎遠になっていた。
そんな中、兵庫県に住む私の姉の姪っ子がひょっこりと事務所を訪ねてきてくれた。30分ほど話した時だろうか、電話が鳴った。アパート案内が入ったのである。残念だけど、ごめんねと言って別れた。せっかく疎遠な私を訪ねてきてくれたのに申し訳なかった。だけど、嬉しかった。身内の人の心の温かさを感じた今日のひと時だった。
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木次線
2024年09月14日
朝のテレビの気象予報士は、今日の最高気温は36℃だと言っていた。昼前になって、ネットで確認したら37℃になっていた。立秋の日から数えて何日が経つのだろう。夏バテと、残暑バテが重なってもう駄目。今年の気候が憎い。その苦しさを忘れたい。店主日記を書きたくなった。
三成駅に佇んだ時、なぜか向こうのホームからこちらに線路を渡って来る子供の頃の私の姿が見えていた。ああ、そうだ。修学旅行の帰りなんだ。小学校の時だっただろうか。それとも中学校の時だったかの記憶は定かではない。夜行列車で帰ってきた。客車の通路に、新聞紙を敷いてその上に寝て帰ってきた記憶を思い出していた。
三成駅はよく利用した。父が、役場の畜産課に働いた時があった。牛を市場に運ぶ時、ここの駅から列車を使った。牛がけがをせぬよう、貨車の内側に板を張り付けた。その手伝いをした。いや、しゃまだったのかもしれない。そのお礼だと言って、走る列車の機関車に乗せてもらった。風を切る坊主頭が気持ち良かった。母の実家の亀嵩へ行くのもここから乗った。向こうのホームを歩く母の姿が懐かしい。
あの頃は乗客も多かった。三成駅は賑わっていた。その賑わいもモータリゼーションの波に押されて、今では駅舎という駅舎もなく閑散としている。先日停車していたあの列車にも、ポツンとひとりの乗客だけを見た。客車横に、「次へつなごう、木次線」と、手書きがしてあった。日帰りでいい、たまには列車旅もいいのかも。
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舌震の恋吊橋
2024年09月11日
今電話待ちを事務所でしている。外は相変わらず暑い。湿った空気が肌にまとわりつくような、そんな不快な暑さだ。定休日だから仕事をする気はない。外をぼんやり眺めていたら雨が降ってきた。そして晴れてきた。私が子供の頃の母は、この状態を狐の祝言だと言っていた。懐かしい。
そんな子供の頃、よくここ「鬼の舌震」で遊んだ。我が生家から、子供の足でここまで歩いて1時間弱。あの頃は、水面から1.5メートルの高さに吊橋があった。その吊橋から飛び込んで泳いでいた。あっという間に、唇の色が紫になって行った。太陽の光に焼けた岩肌で、体を温めた。懐かしい思い出のひとつだ。
今その吊橋はなくなって、それから何代目だろう。遥か高く、恋吊橋が出来上がった。その真ん中で下を見ると、泳いでいたダム湖も、流れてきた砂にうもれていた。昔の面影はなくなっていた。あの頃を思い出して懐かしんでいたら、人がひとりこの橋を渡ってきた。その一歩一歩に呼応して、わずかだが微妙に橋が揺れた。昔、妻を恋した時の心の揺れのように。
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気持ちがほっこりと
2024年09月11日
昨日の月一の連休の初日、朝起きてどこに行こうか迷った。とりあえず車に乗って国道9号線を西に向かった。宍道まで行った時、奥出雲町に行こうと決めた。なんとなく寂しい時は、奥出雲町に向かってしまう。なぜか懐かしい故郷に向かってしまう。
久し振りに鬼の舌震に行ってみた。カメラを肩にぶら下げて土産店兼蕎麦屋さんの前を通りかかった時、そこのおかみさんが声をかけてくれた。話を聞いてくれそうな人柄に見えたからいろいろなことを話した。ついそこの堅田という村で生まれたんだよ。今ひとり暮らしだよ。妻は6年前に死んでしまったんだよ。来週、娘たちが帰って来るよなんて話したら、よく聞いてくれた。会話の飢えが満たされた気がした。
そんな人と会えて、心がほっこりした。そしたら何故か、三成駅に行きたくなった。三成駅は閑散としていた。が、列車が一台停車していた。ホームに立って眺めていたら運転手さんと目が合った。会釈をくれた。そんな会釈はローカル線ならではの光景だろう。また気持ちがほっこりとしてきた。
今日は定休日の二日目、来客の予定。だから出勤してきた。対応が終わったら、どこに行こうか、な。
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書かねば通さぬ美保関
2024年09月08日
9月になって2度目の日曜日がやって来た。日曜日は私にとっては勤務日、だけどやはり日曜日は日曜日の気分。確認したい物件があったので朝一番で出かけた。さっき10時半に帰って来てやっとエアコンのスイッチを入れた。インスタントコーヒーの粉ををカップに入れて湯を注いだ。さあ、今日が始まるぞ。
と、気合を入れたがやはり日曜日。コンパクトステレオのスイッチを入れた。パソコンを開いて先日行った美保関の日付をクリックした。まず目に付いたのが写真の板。知名度の高い二人の俳句が刻んである。美保神社の鳥居の脇を青石畳通りに入って、直ぐの左側の民家の塀に取り付けてある。湯川さん、俳句は書けんけど日記は書くよ。
母と暮らしたその昔、行きたいと言う母とよくここに来た。その昔、田植えが終わると、「泥落とし」と言って農作業の慰労のための旅行があったらしい。まず、松江に列車でやって来て、そこから船に乗って美保関に来たと言う。当時の仁多町を朝早く出発して、夕方着いたと言うから片道一日要した旅行だった。
当時は賑わっていた。土産物店も、数多くあった。そこで農業で使う、竹でこしらえた駕籠などを買って帰ったと言う。10年ほど前にあったその名残も今はない。そんな母の思い出などが心を巡っていく。ステレオから、ナナ・ムスクーリが歌う「ママポーラ」が流れていて、その歌声が私を優しく包んでくれる。音楽は、アメイジング・グレイスに替わった。
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残暑バテ
2024年09月06日
この頃体が変。体がだるくて食欲もなし。気力も湧かない。どうしてだろうと牛乳を飲みながら朝のテレビを見ていた。テレビはこの状態を「残暑バテ」だと言った。はて、そんな言葉あったかなあ。夏バテはよく聞くけれど、最近できた新語かも。
昨夜よく寝た。だけど朝方の4時に目が覚めた。二度寝しようと頑張るがどうもダメ。横になっていても意識がずうっと続く。昨日もそう、この2~3日寝不足が続いている。そう言えば、だいぶ昔だったけど、寝るのも体力だと、読んだ「渡辺淳一」の小説にそう書いてあった。
そんなバカな、と若い当時はそう思った。体力がないから寝るのだろ。体力があるなら寝なくてもいいんだろ。そう思ったが作家の渡辺氏は医者でもある。半信半疑だったが、歳を重ねるごとに、それもそうだなと思うようになった。そして今ではすっかり納得している。
写真は美保関港。向こうに見える高い山が大山。
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夏の終わりに
2024年09月04日
昨夜、なぜだろう。飲めば飲むほどに寂しさが増してきて、日が替わるまで飲んでしまった。遅く起きた今朝も、それを引きずっていて、美保神社に行きたくなってきた。そして青石畳を、妻と歩いた思い出をかみしめるように、ゆっくりと歩いてみた。面影の妻の姿に話しかけてみた。そしてやっと落ち着いた気がした。
いつもそうだが、ここに来ると今写真を写したこの場所にしばし佇んでしまう。この場所から見るこの風景に、得も言われぬ美しさを感じてしまう私なのである。最良の場所を探すために、ゆっくりゆっくり移動していく。手前の木立と、神社裏の山との空間のバランスを探すために。
今日は参拝客が多かった。一礼をして鳥居をくぐって行く人たちに日本の文化を感じたりしていた。夏を名残惜しむかのようにミンミンゼミがあちらの木で鳴いて、そして違うのがまたこちらの木で鳴いた。暑くて辛かった今年の夏、木陰に立てば涼しさを感じる今日になれば、去っていく夏に一抹の寂しさを感じてしまう私なのである。・・・だから昨夜、あんなに寂しかったのだろうか。
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やす子さん
2024年09月03日
8月24日のこの日記に書いたヘクソカズラの開花が多くなってきた。この花の花期は8月から9月だとある。秋の訪れを知らせる花なのかもしれない。ヘクソカズラという不名誉な名前だが、私は好きだからもっと自信を持ってほしい。そして秋の訪れに咲き誇ってほしい。
先日の夜、民放のテレビ中継の「24時間テレビチャリティーマラソン」を見た。芸能人のやす子さんが足を痛めながらも懸命に走っていた。中継のアナウンサーが言うのには、やす子さんは一時期、児童養護施設で暮らしたらしい。そこで最初に告げられた言葉が、「大学には行けないよ」と「18歳になったら出て行って」というふた言だったらしい。やす子さんは思ったという。「不公平」だと。
やす子さんも、苦労したんだなと思った。でも、頑張っているんだなあとも思った。そしてこうも思った。海援隊が歌う「贈る言葉」の中に、こんな歌詞がある。「人には悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」。やす子さん。あなたはきっと優しい、素晴らしい人間になって行くんだよ。あなたの表情をみて、きっとそうだよと思ったよ。
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台風一過の宍道湖
2024年09月01日
からりと晴れた日曜日の朝が来た。仕事だとは言っても、日曜日はやはり日曜日の気分になる。台風一過の宍道湖が見たくなって、営業準備を終えてからカメラを持って出かけた。国道9号線脇にある展望所まで我が社から車で5分余り、良い風景が広がっていた。
宍道湖は凪いでいた。嫁ヶ島の上に、いくつかの白い雲がぽっかりと浮かんでいた。雲は、威風堂々と波のない宍道湖に我が身を映していた。やがて風が私の顔を撫でて行った。その風は宍道湖にさざ波を立てた。宍道湖に映った雲の姿はさざ波が消した。嫁ヶ島の手前で大きなボラが一匹ぴしゃりとはねた。それに呼応するように少し手前でまた違うのが跳ねた。
宍道湖を眺める視線を西の方に変えた。いつもは水平線に隠れた出雲空港の管制塔が見えた。写真の真ん中に写っているのを確認できるだろうか。事務所に帰ってパソコンで大きく引き伸ばしてみたら左の建物は空中に浮いていた。蜃気楼なんだ。何か不思議な気がした。どうしてだろうと思った。もう直ぐ、孫に会える嬉しさからだろうか、そんな気がした。