店主日記
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けなげだね
2024年10月31日
この頃、野菜の酢漬けにはまっている。夕方帰ったらまずシャワー。それが終わったら缶ビールを、というより発泡酒をひと缶。そして酢漬けをつまむ。そうしながら夕食を作る。先週は一週間ほど鍋料理を。野菜を足しては温める。朝もサラダを食べるから野菜は豊富。なんて健康的な食生活なんだろう、酒さえ過ぎなければ。
昨日の定休日、午前中妻の墓石まわりの草刈りをした。途中腰に違和感を感じたので虎刈りに終わった。でも今朝の墓参は気持ち良かった。まだ少し腰が気になるから、気温も下がってもう草も伸びないだろうから正月までにはもっと奇麗にしてあげる。必ず奇麗にしてあげる。
それにしてもどうしてだろう。朝が眠くて起きれない。夜も早めに眠るのだけれど、だけど朝が眠くて起きれない。殊更に暑かった今年の夏。そこへ帯状疱疹の辛さが加わって、疲れ果ててしまったのだろうか。その疲れを今懸命に、癒そうとしているのだろうか。もしそうだとしたら、体ってけなげだね。可愛いね。
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ツワブキ
2024年10月27日
ツワブキの花が咲き始めた。秋が更けていく頃、この花が咲きはじめる。この花は太陽の陽射しが似合わない。遮断されて陽射しの届かない場所に静かに咲くのが似合っている。この花は、冬を呼んでくる花なのだと子供の頃からそう思っていた。だからこの花を見ると、寂しさが増していく。
今朝は久し振りに自治会の掃除があった。年配の女性の人と目があった。新聞投稿、この頃しないのねと話しかけてきた。いつだったか,NHKのテレビ番組で、東出雲町の黄泉の国の話が放映された。東出雲町には、黄泉の国の入り口がある。そこにある郵便ポストに手紙を入れると、亡くなっていった家族や友人に届けてくれる。
東出雲町の商工会が、そんな発案をした。私も一度だけ、そのポストに投函したことがある。そのことを山陰中央新報のこだま欄に投稿して採用された。かなり以前の話だが、あれ読んだよって話になった。テレビ放送で、懐かしく私の投稿を思い出してくれたらしい。(2022年5月31日のこの店主日記参照)
他にも、いろいろな自治会の仲間と会話した。そんなに親しくしてるわけではないが、その会話によって心がほっこりとしてきた。そんなに私は人との会話に飢えているのだろうか。そう思った。それとも、年齢を経て、気持ちが軟弱になってきているのだろうか。そうかもしれないね、ツワブキの花を見てただけで寂しくなっていくんだもの。
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くつろぎ
2024年10月26日
鍋料理が恋しい季節になってきた。先週の水曜日の定休日に、たくさんの野菜を買って、大きな鍋にたくさんの鍋料理を作った。食べ終わったら、冷えるのを待って冷蔵庫に保管する。そして次の晩、温め直して再び、鍋料理を頬張る。野菜が減ると、又加えていく。これで一週間の晩御飯は大丈夫。
食べ終わった昨夜、リビングのソファーの前に座布団を置いた。その上に座ってソファーは背もたれ代り。これが私のくつろぎスタイルだ。テレビの音をBGMに聞いて、新聞を読みながら焼酎のお湯割りをちびりちびりといく。なんて安らかな瞬間なんだろう。でもひとりでは静かすぎるから、下手な歌を口ずさみたくなる。
♪♪君のその小さな手には♪♪・・・。だれもが哀しみのひとつやふたつは心に抱えている。僕もそうなんだよ。でも君には耐えられそうにもない大きな哀しみがある。だから、せめて笑顔が救うのなら、君を救えるのなら、僕は道化師になって、ピエロになって、そしたら君の笑顔が見れるだろうか。そう歌っているように思う。そしていつの間にか優しさに感動して、声が詰まってきて、涙がこぼれてきた。
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道化師のソネット
2024年10月24日
もうずいぶん、車のステレオのCDの入れ替えをしていない。休みの度に、同じ音楽を聴いている。でも一番気に入っているCDだから。昨日の定休日もそうだった。180キロの走行距離に、何回、かぐや姫が歌う赤ちょうちんが巡って来たのだろう。
三瓶山の東の原の駐車場に車を停めた。エンジンを切った。スマホを取り出した。検索履歴に残った道化師のソネットに指を触れた。いつだったか、見知らぬ人だけれど、時々メール交換をする人が歌心りえさんが歌う、この歌を教えてくれた。以来その歌唱力に惚れこんで毎日何度か聴くようになった。
「君のその小さな手には 持ちきれないほどの哀しみを せめて笑顔が救うのなら 僕はピエロになれるよ」と歌詞は歌う。「せめて」とは、最小限を望む言葉だ。笑顔が救う訳じゃないけれど、笑顔なんて何の力もないけれど、だけどせめてそれが哀しみから救うのならと歌っている。頑張れじゃあ辛いんだよね。だからこれが本当の、相手を思いやる心なのだろうと思う。作詞したさだまさしさんは素晴らしい人だね。
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更新作業
2024年10月20日
5年に一度の宅地建物取引業の免許更新のための作業を終えた。書類を書き、事務所内外の写真も写してプリントを終えた。5年に一度じゃあこの作業も慣れぬ。5回目になるのにまだ慣れぬ。ふうっとため息をついた。そして思いは、開業当時に遡って行った。
娘のバスケットボールの練習を見ている時、突然倒れたこと。気が付いたら救急車の中だったこと。救急隊員の一人がふたりに見えたこと。4階の病室から宍道湖の夕日を眺めたこと。退院した後、数か月間、苦しみ、悩んだこと。夜中に起きて勉強したこと。広島の会場で通信教育の試験を受けたこと。コンビニでアルバイトしたこと。なにもかもが苦しかったけど、今になれば毎朝食べるサラダみたいだな。
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もういちど会いたいな
2024年10月19日
先日の朝、日本自閉症協会の島根県支部の松江分会、「あじさいの会」に行ってきた。数人の懐かしい顔ぶれがいた。招待された人に、島根県東部発達障害支援センター、ウイッシュのIさんがいた。そのセンター、出雲市にある。今度息子を見舞う日に、立寄ってみたいと思う。話を聞いてもらいたいと思う。そして良い解決方法を探ろうと思う。
昨日のその足で、法務局に行った。登記されていない証明書を頂いた。市役所に行った。身分証明書と、住民票を取り寄せた。税務署に行った。納税証明書をもらった。何に使うのかって、宅地建物取引業の免許更新のためである。更新も5回目だ。我が社、誕生してから20年を超える。そして今朝気怠い目覚めだった。昨日、疲れ果てたせいだろうか。
そして、疲れた日にはいつも思ってしまう。なぎさ、もういち度会いたいな、って。もういち度いっしょに暮らしたいな、って。そして、妻の笑顔がまぶたに浮かぶ。・・・ああ、会いたいな・・・。
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荒れる海
2024年10月17日
昨日の定休日、よく寝た。というより、寝たふりをした。疲れているだろうに、だから夜明け前から意識があるのに布団の中。寝てるような、起きているような、妙な感覚がしばらく続いた。でも寝なきゃあ。でも意識がある。ああ、苦しいな、こんな感覚なんて。
ひとり家にいてもつまんないから事務所に行った。かあちゃんの詩日記付けた。昼になったので出雲市に向かった。息子に会いたい。気になるから。病院に着いて面会をお願いした。まだ拘束されて身体が自由にならない状態だった。可哀そうだった。我が事よりも心が痛んだ。そして、荒海のように心が荒れた。息子が壊されていく。
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秋の雲
2024年10月14日
穏やかな朝を迎えた。出勤して朝のルーティーンを一応終えた。今日もジーパンとティーシャツで出勤してきた。この3連休、この格好での出勤である。どうも休みの日は、気持ちが緩むらしい。いや、緩めたいらしい。でも動きやすいな。そうだ、久し振りに玄関のガラス戸を外から掃除しよう。
我が社の玄関はほぼガラス戸で埋まっている。ガラス掃除終わって、机に座って外を眺めた。ガラス戸が透き通って外が良く見通せた。きれいになったものだと感心した。茶臼山の上に秋の雲が広がっていた。今日はどの雲の上にいるんだろう。そこからこちらがよく見えるかい。俺のこと、良く見えるかい。
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寂しい時は寂し気な曲を
2024年10月13日
ぐっすりと眠った。昨夜早く寝たのになぜか今朝目覚めた時、まだ眠り足りない気がしてまた眠った。9時間余りを眠ったことになる。長かった夏の暑さの疲れを、また、帯状疱疹に侵された疲れを取り戻そうとしているのだろうか。涼しくなったこの頃は、むさぼるように眠る私なのである。
今朝も日課の妻のお墓に行った。しばらくの妻との会話の後、墓石を後にした。駐車場に着くまでのわずかな間、妻の墓石が見え隠れした。妙に寂しかった。低気圧でもないのに、妙に寂しかった。妻との、楽しかったあの日々の暮らしが思い出された。もうあの暮らしは二度帰って来ないと思うと寂しかった。今日はどうしてだろう。時々こんな日がやって来る。今日のこの日記のテーマ、「寂しい時は寂し気な曲を」としてみた。私と同じように連れ合いを亡くされた方に、この日記を読んでもらいたい。きっと、気持ちが楽になると思うから。
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キンピラゴボウ
2024年10月12日
4日目の鍋料理に材料を継ぎ足して食べ終わった昨夜、車で片道1時間の出雲市行きの仕事で疲れたかなと思っていた。が、案外そうでもなかった。長かった夏の暑さの疲れがどうやら癒えたのかもしれない。バレーボールのテレビ観戦していたら案外早くに試合は終わった。はて、何しよう秋の夜長を。そうだ、キンピラゴボウ作ってみようか。でも作り方知らないよ。スマホで調べたら。めんどくさい、自己流でいいよ。
タワシでゴボウをこさげて洗った。斜めに細長い輪切りにした。それを縦に千切りした。水につけてアクを抜いた。よし、これでOK。それを油をひいたフライパンに入れた。味付けどうしよう、砂糖を少し入れてみた。味コショウを振った。酒も入れてみた。そして最後は醤油で仕上げた。
味見した。旨いと思った。味見のつもりが大半を食べてしまった。写真が残ったキンピラだ。そしてしばらくの後、我に帰った気がした。私はいったい何をしているのだろう、何を考えているのだろうこんな夜更けに・・・。そうなのかもしれないね・・・。きっと、寂しいからなんだよ、ひとり暮らしが。
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出雲今市
2024年10月11日
私の故郷では、出雲市に行くことを今市に行ってくる、そう言っていた。出雲市には今市町があって、そこが商業や文化の中心だったからだろう。そのうちに、出雲今市になり、出雲市と呼ぶようになっていった。そんな小さな歴史にも、それぞれの時代の暮らしぶりが想像できるからおもしろい。
早い昼食を済ませて、資料を持って出雲市に向かった。お客様は、私と同い年でひとり暮らしの女性だ。ひととおり仕事の話が片付くと雑談になっていった。そして孫の話。可愛くてしょうがないらしい。一時間ほど話し込んだ後、入院の息子を見舞った。すやすやと眠っていて安心した。
帰り、昔テレビ放映された日本まんが昔話に描かれそうな雲がいくつも浮かんでいた。なぜかその雲が、生後半年の孫を連れて北京に行く娘を出雲空港で見送ったのを思い出させた。ジェットエンジンをうならせて飛行機は羽田空港を目指して飛び立った。やがて、きらりと光って視界から消えた。知らぬうちに、両瞼は今にもこぼれそうなほどの涙を溜めていた。出雲、出る雲と書くんだなと、あらためてそう思った。
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海…日本海
2024年10月10日
妻の墓石の隣の隣に、時々出会う女性のご主人の墓石がある。彼女私よりふたつ年上らしい。その方、車には乗らなくなった。盆の日に、毎日は来れないだろうと、彼女が供えた墓石の花に2回ほど水を足してあげた。昨日出会った時、水を足してくれたのはあの人じゃないって娘が言うから、と。
鳥取市のあるギャラリーで、兵庫県の温泉町のある寒村を写した写真展があることを知った。遠いけど、鳥取なら行きたいなと思った。妻とのデートの場所だったから、と思った。墓参の後、向かった。淀江で山陰道を下りて国道9号線を走った。山陰道の完成で国道はめっきりと車が少なくなった。走り良くなった。やがて左手に日本海が見えてきた。
天気は良いが、海は荒れていた。風が運んだ海水のしぶきがフロントガラスを曇らせた。この道、君との兵庫県への里帰りによく走ったよなと、助手席の妻の遺影に話しかけた。そうだね、と返事が返ってきた。息子が助手席で、私とふたりの娘は後部座席だったね。あの時のホライゾン、かっこよかったね。あの車でよくキャンプに出かけたねと話しかけてきた。
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生命力
2024年10月05日
息子を転院させた3日の夜、焼酎のお湯割りを二杯飲んだところで疲れが頂点に達した。立って歩くのがやっとのこと。布団に転がり込んだ。そして4日の朝、大きな気怠さをもって4時に目覚めた。以後、眠れなくなった。疲れすぎると、眠れなくなるらしい。
今朝は7時過ぎに目が覚めて、眠り足りなくて8時まで布団の中でぐずぐずしていた。まだ疲れは残っているが昨日ほどではない。3日も疲れを引きずるなんて、歳をとったものだと思った。だが年齢は、明日を生きる生命力を逞しく育てる能力なのかもしれない。出勤の服に着替える時、ふとそんなことを思った。
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退院そして入院
2024年10月03日
肌寒い朝だった。9時前に事務所を出発した。出雲市の県立中央病院に10時過ぎに着いた。。総合受付で手続きを終えてエレベーターで9階まで上がった。数人の病院職員さんが息子の退院の準備をしていた。そして再び、こころの医療センターに向かった。再入院だ。
医療センターで、主治医や相談員の方と懇談をした、再入院の手続きを終えた。疲れた気がした。今回のことで、重度の障害を持つ息子には、母性が必要だと痛烈に感じた。母がいれば、息子にとってもっと安心な病院生活ができただろうと、そう思った。疲れていたけど、少し回り道をして帰ることにした。
雨が風景を曇らせていた。先日の彼岸の日には見なかった彼岸花が、あちらこちらで咲いていた。今年は暑かったから開花が遅れたのだろうと思った。出雲大社の鳥居前は多くの観光客で賑わっていた。どの顔も、幸せいっぱいそうに微笑んでいた。今朝から何週目だろう、この一枚のCDは。12枚セットの中で、一番気に入っている歌声がエンドレスにスピーカからこぼれていた。
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通院の日
2024年10月02日
アスファルトを打つ雨音で目覚めた。起きようか、いや今日は定休日、もう少し寝よう。8時過ぎまでぐっすりと眠って、朝食終えて、掃除機かけ終えて、今日は肌寒いなと感じて、何着ようかと考えた。なぎさ、何着たらいい?。応えもしない、妻に聞いてみた。
洗いざらしのジーパン履いた。8年程前に、妻とふたりで松江市内のジーンズ店で買ったものだ。当時はぴったりと足にフィットしていたが、今ではガブガブだ。洗いざらして生地が伸びたのか、それとも足の筋肉が衰えたのかは分からない。が、以来、ジーンズを購入したことはない。ガブガブなのもおしゃれかなと思えば足りる。休みの日には、それ以前に買った2本とを、かわるがわる穿いている。
ジーパンとTシャツと、ジーパンに合いそうな厚手のシャツを羽織って家を飛び出した。20代の若者とほぼ同じスタイルだ。若くありたいと思う気持ちがジーパン好きに私をさせている。午後は通院予定、心電図技師のあの娘、ぬ???、と会えるだろうか。妻は裏切れぬが、恋はしたいと思っている。
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DASAI
2024年10月01日
息子の病気が気になって、今朝一番で出雲市の病院に行った。今日は一昨日と違って元気そうだった。元気な息子を見ると、心が救われる。だって、障害を持った子に産んだのは私たちだから。息子には、何の責任もない。そして今、その責任をひとりで背負っている。何とか幸せに生きてほしい。
国道9号線の帰り道、いつものように音楽を聴いていた。もの思う時、音楽は聞こえない。夫婦二人の時とひとりでは、こんな違いがある。喜びは半分に、そして苦しみは3倍になって感じてしまう。そんなことを思った時、ふと路上の地名の案内板に目が行った。何と読むのだろう、「太才」。え、ほんと?。ローマ字で、DASAIとふってあった。その地名は、斐川町富村にあった。