店主日記
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砂の器・亀嵩駅
2024年09月21日
今日は末娘が松江にいる最後の日だね。長女の提案で奥出雲町にあるサイクリングターミナルの中の仁多米食道に行こうと言うことになった。いつものように事務所を開け、昼前になってみんなで車に乗って出発した。末娘と今日でまたしばらく会えないかと思うと、いやそんなこと考えずに今日いちにち楽しもう。
仁多米食道の鉄板焼肉定食を注文した。味付けも良かった。ご飯が美味しかった。さすがは仁多米食道と言うほどお米が美味い。ご飯はお替り自由ということなのでひとり分だけお替りした。お父さん盛り過ぎだよ。このぐらい、4人いればどうにでもなるさ。
仁多米食道を後にして鬼の舌震に行ってみた。恋吊橋(9月11日のこの日記に登場)渡ろうよ。「こわ~い」と言って孫は渡ろうとしない。母に抱っこされても怖いらしい。真ん中あたりまで行って引き返した。遊歩道には、栗が落ちていた。子供の頃の栗拾いを思い出して少し拾った。
次どこへ行く。砂の器の駅に行こうか。待合室のテレビに砂の器の映画が映されていた。波打ち付ける砂浜を、ハンセン病の父とふたり歩く子供の姿が映し出された。悲しい音楽が聞こえていた。そしてたどり着いたのが亀嵩。良くしてくれた駐在所のお巡りさん。ストーリーが頭の中を駆け巡って行った。
夜のとばりが降りようとする夕方遅く、末娘を出雲空港まで送って行った。搭乗口に入っていく末娘に手を振った。視線から消えるまで手を振った。手を振れば振るほどに寂しさの気持ちが強くなる。会えば寂しい別れが必ずやって来る。だから、帰って来なきゃあいいのに。そう思ってみても、久しく会わなきゃあやはり会いたいと思ってしまう。
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大山
2024年09月19日
その晩、明日どこへ行きたい。という話になった。うーん、みるくの里。だれが言い出すともなくそんな結論になった。東京には米が無くて、ここひと月、米食べてないよ。そうなんだとちょっぴり哀れになった。じゃあちょうど、婿殿の郷から頂いた新米があるからこれ持って帰るか。じゃあ明日9時出発。まず郵便局だよ。新米は我が家が少し頂いて、後は娘のアパートに郵便小包にすることにした。
みるくの里は高原とあって涼しかった。そよ風が優しく頬を撫でていって、草原をはしゃぐ孫の髪をなびかせた。この娘二人と妻と、いつだったか4人でここに来たことがあった。3人の記念写真を私が写した。それぞれに笑った顔の写真が今仏壇の横の木箱に納めてある。タイムスリップしたように、あの時の光景が私の心に鮮やかな映像となって浮かんできた。
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孫が帰ってきた
2024年09月19日
7日の昼前に娘夫婦と孫が事務所に帰ってきて、娘たちが予約してくれていた「味皆美ふじな亭」で昼食を摂った。そして別れて、婿殿はそのままぶらりと列車旅。娘は孫を連れてドライブして夕方まで時間をつぶした。夕方の6時40分着の飛行機で、東京の末娘が出雲空港に帰って来る。長女と孫と、3人で6時に我が家を出発した。
山代町は夕方の気配が漂っていた。玉湯町の空で茜色が広がろうとしていた。自動点灯のヘッドライトが路上を照らしだした。国道9号線は混んでいて、車はのろのろと走った。宍道町に着いたらすっかり夕日に変わっていた。空港の駐車場に車を停めた。ロビーで待っていたら間もなく、到着の人混みの後ろの方から末娘が笑って歩いてきた。
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嬉しい日
2024年09月15日
女性が、こんにちわと事務所にやって来た。いらっしゃいませと言ったら、「E子の娘です」と言う。松江工業高校で、高校生の息子のバレーボールの練習試合があってやって来たと言う。会場のこんな近くにいらっしゃったんですねと言う。めったに会う子でもなかったのに、顔など覚えるはずもなし。最後に会ったのは、5年前、姉を訪ねて兵庫県に行った時だ。そう、彼女私の姪っ子なのだ。
私の兄姉は3人いて、長男は7年前に亡くなった。次男は沖縄に住んでいる。そして姉は兵庫県だ。めったに会える近さじゃあない。それに、私の長男は重度の自閉症を持って生まれた。私自身、大病で会社を首になった。ずぶの素人の私が懸命に不動産業を立ち上げた。これから人生楽しくなると思った矢先、早くに妻を失った。そんな私は心忙しなく、兄姉とも疎遠になっていた。妻の死を知らせないほど、疎遠になっていた。
そんな中、兵庫県に住む私の姉の姪っ子がひょっこりと事務所を訪ねてきてくれた。30分ほど話した時だろうか、電話が鳴った。アパート案内が入ったのである。残念だけど、ごめんねと言って別れた。せっかく疎遠な私を訪ねてきてくれたのに申し訳なかった。だけど、嬉しかった。身内の人の心の温かさを感じた今日のひと時だった。
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木次線
2024年09月14日
朝のテレビの気象予報士は、今日の最高気温は36℃だと言っていた。昼前になって、ネットで確認したら37℃になっていた。立秋の日から数えて何日が経つのだろう。夏バテと、残暑バテが重なってもう駄目。今年の気候が憎い。その苦しさを忘れたい。店主日記を書きたくなった。
三成駅に佇んだ時、なぜか向こうのホームからこちらに線路を渡って来る子供の頃の私の姿が見えていた。ああ、そうだ。修学旅行の帰りなんだ。小学校の時だっただろうか。それとも中学校の時だったかの記憶は定かではない。夜行列車で帰ってきた。客車の通路に、新聞紙を敷いてその上に寝て帰ってきた記憶を思い出していた。
三成駅はよく利用した。父が、役場の畜産課に働いた時があった。牛を市場に運ぶ時、ここの駅から列車を使った。牛がけがをせぬよう、貨車の内側に板を張り付けた。その手伝いをした。いや、しゃまだったのかもしれない。そのお礼だと言って、走る列車の機関車に乗せてもらった。風を切る坊主頭が気持ち良かった。母の実家の亀嵩へ行くのもここから乗った。向こうのホームを歩く母の姿が懐かしい。
あの頃は乗客も多かった。三成駅は賑わっていた。その賑わいもモータリゼーションの波に押されて、今では駅舎という駅舎もなく閑散としている。先日停車していたあの列車にも、ポツンとひとりの乗客だけを見た。客車横に、「次へつなごう、木次線」と、手書きがしてあった。日帰りでいい、たまには列車旅もいいのかも。