店主日記
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食については心配するな
2025年01月28日
一昨日の夜はたっぷりの豚の小間切れに、タマネギ1個、キャベツ8分の1個、ニンジン、ピーマン、それにシメジを足して炒めて焼き肉のたれで味付けしたものを食べた。どお、野菜たっぷりだろ。栄養満点だろ。昨夜はニンニク5粒を粗みじんにして、冷凍のご飯1食分じゃあ足りないから焼きそばの袋入りを半分にして小さく刻んだのを足した。具は長ネギ1本。これで大盛りガーリックネギ焼きそばチャーハンの出来上がりだ。パラパラによく焼いたから美味しかった。

朝はトーストパン、卵とウインナーを焼いたの、牛乳をコップ1杯飲んでいる。それにプラスサラダだ。サラダはキャベツの千切りをメインに、味変彩にタマネギ、ニンジン、ピーマンをスライスして少しずつ混ぜている。サラダの量は丼1杯ほど。それに市販のドレッシング。夜作って水にさらしてザルにあげて冷蔵庫の野菜室に入れておく。シャキッとして旨い。なかなかまめだろ。だからなぎさ、ちいっとも心配しなくていいんだよ。
今朝は雪が降って少しだけど積もった。今お昼前、陽が照っている。・・・そして昼になった。ほら、開業当時からのメモノートの「不動産日記」、NO76になった。今日はもう、メモがノート片面の3分の2が埋まった。君が居た時のようにはいかないが、仕事もぼちぼちいけている。
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西日の雨上がり
2025年01月24日
営業時間は後1時間ほどになった。先ほどまで降っていたにわか雨は止んだ。西日が射してきて向かいの3階建ての事務所の白い壁を黄色く染めている。何回この風景を見て来たんだろう。雨上がりに白壁を染めた西日の風景には人々を包み込んでくれる優しさがある。優しい色がある。何か懐かしい気がした。ここに事務所を構えて21年目、そのうち13年間は二人して見ていたんだなと、懐かしさが疲れた体を癒してくれる。
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え、不思議だなあ
2025年01月22日
9時まで寝た。パンを切らしていた。ならばと、チンした冷凍ご飯に卵を乗せた。削りカツオを乗せて刺身醤油をかけてお腹へとかき込んだ。顔を洗って服を着替えて9時30分出発。お墓経由で出雲市の息子を見舞った。入院費用の支払い済ませて病院の駐車場の車に戻った。さあ、どうしよう。
行き先に迷った時、故郷の風景が頭に浮かぶ。やはり奥出雲に行こうと心に決めた。道選びはハンドル任せ、立久恵峡を走っていた。やがて佐田町から掛合町の国道54号線に抜ける峠にさしかかった。トンネルの手前の駐車スペースに車を停めた。俯瞰できる風景に心奪われた。黄砂の影響だろうか、景色がかすんでいた。

54号線から吉田町に。ここから奥出雲町に抜けようと思った。すれ違う車もないまま、奥出雲町阿井地区に出た。そのまま三成、亀嵩、広瀬に出て安来市から帰ってきた。早く家に帰ってきたので2週間ぶりの掃除機かけた。そう、男やもめにウジが湧くとはこのことだろうね。
早い夕食になった。あ、そうだ、日本酒を燗して飲んでみよう。何年振りだろうな燗した日本酒飲むのは。楽しみだった。だけど、えっと思った。受け付けない。燗した日本酒はもう体が受け付けてくれない。どうしてだろう、あんなに好きだった燗酒が飲めないなんて。不思議だなあ。
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ついに180円台
2025年01月21日
1年中で一番寒い時期なのに、なんでこうも温かいのだろう。そんな日には体も正直でよく動いてくれる。事務仕事を片付けておきたい。その事務仕事で手書きする部分が出てきた。しかも用紙のスペース上、小さな字で書かなければいけない。ところが手が震える。この頃、夜のアルコールが朝になって抜けると、時々そんな日がやって来る。それはさて置いて、よく働いた。よく働くと、いろいろなところに気が付く。A3と,A4のコピーペーパーの在庫が少なくなった。仕入れてこねば。そして明日は定休日、ついでにガソリン入れておこう。いつものセルフのガソリンスタンドに寄った。掲示に,1リットル181円とある。や、ついに180円を越したんだ。
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息子よ
2025年01月20日
特に病気ということでもないが、余儀なくて自閉症という障がいを持つ息子が入院生活になって6年半になる。そのストレスのせいか、息子は自傷行為をするようになった。命に係わるからと、今手足と胴体をベルトで固定されている。会ってやりたいので、会いに行くのだが顔を見るのが辛い。
息子が入院する6年半前のその日の前日、妻は突然倒れた。すぐに病院に運んだが助からないという医師の判断だった。血圧が上がってましたから。だから・・・。あくる日の早朝、呼吸が弱くなった。そして間もなく、静かに、静かに息を引き取って行った。辛すぎて、私は涙も出なかった。泣けるほどの余裕が出来たのは、49日が終わって、三瓶山に向かって車で走っている時だった。ハンドルを握りながら涙がこぼれてきて、頬を伝って服を濡らしていった。
その頃から、妻の死は息子の入院に原因があると思うようになった。私はどうしてもっと、息子の入院を阻止する努力をしなかったのだろう。妻の死の責任は、私にも・・・そう思うようになった。大好きだった母に息子はもう会えない。そうしたのは私のせいなのかもしれない。息子に申し訳ないと思った。今不自由な生活をさせている私は何て無力なんだろう、そう思うようになった。
今朝、発達障害支援センターの心理スタッフの方に会った。息子の状況を説明した。妻が月一のお便りを作っていた自閉症協会の松江分会に数か月前に久しぶりに顔を出してみた。息子のことを話して、そして紹介されたのが発達支援センターだった。市の、県の障がい者支援課でも、得るものはなかった。だけどなぎさ、必ず、必ず、息子が良い入所施設に入れるよう、努力する。息子が、平穏に暮らせるよう努力する。そして君の心も安らぐように。




