店主日記
-
盆休み
2024年08月15日
13日の迎え盆の日から15日の送り盆迄休むことにした。13日、計画の先祖の墓参りをすることにした。だから目的地は奥出雲町。たまには違った道を走って行こうかと、安来市の荒島から広瀬へと行った。広瀬から比田を通って亀嵩に入った。道路わきに「うさぎはいないよかめだけよ」とあるから安全運転してね、ということらしい。
いつもの酒蔵交流館で「ドブロック」を買った。そして墓参完了、さてどこに行こうか。おろちループ橋を通って広島県に抜けた.T字路に突き当たって今日は右、三次方面に向かって走った。三次から国道54号線を北進、松江市への帰路に着く。
あてもなく、車の少ない道路を選んで走った。エアコンがフル活動。道路わきの温度計が33度を超していた。暑い訳だ。まだしばらくはこの暑さが続きそう。だけど、空に夏の雲はなくなっていた。確実に秋に向かってるのは確かなこと。季節は順番をたがえることはない。その点、人の運命はと、つい考えてしまう。
-
どこがいい?
2024年08月12日
暑さと共に、帯状疱疹を発症した。今まで経験のない、猛烈な暑さの夏がやって来た。二重苦、三重苦の暮らし。だが、その暑さもどうやら峠を越した。昨日一昨日の夜、窓を全開にして扇風機を付けてエアコン消して眠った。気持ち良かった。盆を過ぎれば涼風がたつ。それを信じて盆を暮らす。
昨日の夕方、墓掃除をして花を生けた。明日は迎え盆、妻が帰って来る。なぎさ、一年振りの里帰りだねって、そんなこと言わないよ。なぎさはいつも俺と一緒だものな。何をするにも、いつもいつも傍に居てくれてるものな。盆に限ったことじゃないものな。明日から3連休、どうして過ごそうか。一日は、超ロングドライブ楽しもうな。どこへ行きたい?。なぎさの好きなところへ走ってあげる。
-
間もなくお盆がやって来る
2024年08月11日
盆とは、先祖様を自宅に迎えて供養する行事だ。家族との別れを知らない子供の頃には純粋だった。母への手伝いが、13日の夕方玄関先で姉とふたりして迎え火を焚くことだった。この明かりで帰ってこらっしゃい(帰ってきてください)と言って火を焚いた。顔も知らない先祖が帰って来る。本当に帰って来るんだとそう信じていた。
いつの頃からだろう、そんなことなどあるはずもない、そう思う私に変わっていた。20歳過ぎの頃、父が旅立って行った。もう、会えないんだなと思うと、泣かない私に涙が出てきた。30歳過ぎ、母が逝ってしまった。一緒に暮らしていたので、ひどく悲しかった。母の死は、私を読書の鬼にした。死って何だろう。それを深く探ってみたかった。
妻が逝ってしまった。神や仏の存在など無視していた私が人並みに墓をこしらえた。死んでしまったら、何も残りゃしない、無になってしまうんだとそう思っていた私が毎朝墓参するようになった。そして妻に話しかけるようになった。娘が結婚したよ。孫ができたよと、報告するようになった。
そして今年も盆が近づいてきた。その前が3連休とあって、公園墓地は賑わうようになった。朝から人が訪れている。いつも静かな公園墓地に、朝からひっきりなしに車が出入りしている。私ひとりの墓地じゃないから我が儘は言えないが、静かな公園墓地の朝が欲しい。妻と、二人っきりで静かに話したい。いつもの日常であって欲しい。
写真は、名も知らない真夏の木に咲く地味な花。
-
試練なのか
2024年08月10日
帯状疱疹による右肩の痛みで早く目が覚めた。昨日、根をつめて契約書の作成をしたから、その疲れからかもしれないと思った。窓を少し開けてみた。案外涼しい。エアコンを消し窓を全開にして扇風機をかけた。なんて気持ちいいんだろう。自然の風の中で朝食摂るなんて何日振りなんだろう。
ずいぶん早く、開店準備が整った。早朝の目覚めで気も晴れないから少し車で走ろうか。国道9号線から右回りで宍道湖一周することにした。肩の痛みが気持ちを塞ぐ。塞ぐ気持ちが家族を思う。会いたいなと思ってしまう。でも、今年の盆もひとりぼっち。
肩の痛みが過去の私の人生を呼び戻す。52歳、大病をして職場を失った。懸命に不動産を立ち上げた。やっと軌道に乗ったと思った時、妻がひとり旅立って行った。どうして私はこんなに不幸なんだろう。そう思った時、秋鹿なぎさ公園に着いた。また来たよ。
しばらくして駐車場を後にした。以前、この近くの幼稚園に勤めていた長女の顔が浮かんできた。そしてお父さんと言った。その時思った。そうだよ、これは試練なんだ。運命が私に与えてくれた試練なんだ。強く生きて、立派な人間に育つんだ。妻も認める立派な人間に育つんだ。・・・松江駅前の街路樹が、朝日を弾いて光っていた。
-
広島原爆の日
2024年08月07日
昨日の朝、出勤途中でラジオのスイッチを入れた。そして間もなく始まったのが、広島の原爆の日の式典だった。79年前の昨日の朝8時15分、晴れ渡った広島の市街地に原爆は投下された。子供の時の当時、ラジオで玉音放送を聞いたという被爆女性、「なんでもう少し早く、これを言ってくれなかったの。そしたら、母も姉も死なずに済んだのに」。
夜遅くになって、NHKテレビを見た。原爆の日の特集をしていた。室内が原爆でめちゃめちゃになった広島赤十字病院。ここに多くの被爆者が集まった。水をくれと言うから、だけど水の調達もできないから、ウジの湧いてる水をくんで飲ませた。美味しい、ありがとうと言って亡くなっていった。広島赤十字病院、「原爆 いのちの塔」と名付けられた。
父を、母を、兄を、そして妻まで失って初めて気付いた命の尊さ、テレビを見ていて涙が溢れた。
写真は、昨夜のNHKテレビ放送を写したもの。