普門院と観月庵

松江城周辺は歩いて散策するほうがよい。松江らしさが凝縮された場所だと思うからだ。普門院も、松江の歴史とともに今日に至っていて、いかにも松江らしい。先日、実は私もここ普門院にある茶室、観月庵で一服を楽しんだ。茶道の心得もない私をもてなしてくれるあたたかさが松江にはある。
松江城を出発したと考えよう。大手前駐車場にある堀川遊覧発着場を、内堀に沿って北に行く。掘りを挟んで向かいは、松江城の石垣と松の木のコントラストが美しい。遊覧船の船頭さんに手を振れば、乗船客までが応えてくれる。旅ならではのふれあいだ。
少し歩いただけで道は90度、右に向かってカーブするが、その手前の眼鏡橋、北惣門橋が美しい。塩見縄手に通じるまっすぐに伸びた宇賀橋も美しい。松江は美しい橋が多い。右折して目に入る橋が北掘橋だ。
注目していただきたいのは、この橋の南詰の交差点だ。橋から直線で南に抜けるはずの道が東の方にずれている。かなりのずれだ。松江には、こんな交差点を随所に見つけることができる。今の車社会には、いろいろな意味でネックになっているが、攻めづらく、守りやすい設計だそうだ。
道は狭いが、先ごろ歩道ができたから歩きやすくなった。もう少し東に行こう。この道のある町が母衣町(ほろまち)だ。母衣武者が住んでいた町だから、この名がついたと思う。母衣武者は、母衣を着て戦場を駆け回る、比較的身分の高い武士だ。この道の突き当たりを左折したところに普門院はある。

これが普門院橋だ。以前このブログで「小豆とぎ橋のこわーいお話」を掲載した。この橋とは違うようだが、この橋を小豆とぎ橋と見立てる人が多い。あんがい、船頭さんもそんな説明をしているのかもしれない。
今から400年前、松江城築城が始まった。おそらく城下町の街並みも、同時に進行したであろう。普門院もこの頃開創された寺院だ。当初、豊国神社として、今の松江市西川津町市成に造営された。
開創 慶長年中
開基 松江初代藩主 堀尾吉晴
開山 賢清上人
総本山 比叡山 延暦寺
御本尊 大聖不動明王
1615年、大阪夏の陣で豊臣氏滅亡後、禄を没収されたが、三代忠晴が寺町に移転、松高山普門院と改称。1676年、大火に類焼、1689年、松平家三代藩主綱近が松江城鬼門の現在地に再建した。
豊国神社で思い当たったことがある。松江城の築城は堀尾吉晴だ。堀尾吉晴といえば、豊臣秀吉の重臣の一人だった。豊臣神社造営は当たり前のことだろう。そして松江城は、堀尾氏3代、京極氏1代、続いて松平氏10代と藩主が代わっていく。
松平氏の初代は松平直正だ。もちろん、徳川家康の孫に当たる。では、父親はだれか。結城秀康だ。この結城秀康、豊臣秀吉の養子になった人物だ。直正の母、月照院の菩提所、月照寺の廟所の門に、桐の紋がほどこされていることでも、豊国神社信仰はうなづける。

観月庵をみよう。三斎流茶室観月庵は、松江市指定文化財になっている。
流 祖 細川三斎忠興公
創設者 天台宗普門院第九世恵海法印
流祖、細川忠興はキリシタン、ガラシャ夫人を妻に持つ戦国武将として、あまりにも有名である。
普門院の方が丁寧に案内してくれる。庭に下りてみよう。まず、腰掛待合がある。天井には宍道湖の漁に使われていた舟板が利用されている。シジミを採っていたのだろうか。それともフナ?鯉?。ここで、宍道湖七珍を思い浮かべるのも楽しいかもしれない。
そして東方には刀賭け。茶室に刀は要らないだろう。待合内の飛び石は五色の石を配している。美保関町の、濡れればめのう色に光る石も使用されているのかもしれない。
観月庵は1801年、時の住職恵海法印によって建立された。不昧公も、堀川を舟でやってきてはたびたび、茶事を楽しんだであろう。
席は、二帖隅炉と四帖半の席を組み合わせてある。東側に腰なしの障子二枚が開く。ここから東の空に出る月を眺めることができる。と、パンフレットは説明する。だから、観月庵だ。

私はというと、東から上った太陽を観月庵の池に映してみた。こんなに強烈ではない、秋の名月を映してみたらどうだろう。二帖の部屋の障子の窓が大きすぎるのも、観月を楽しむためのものだった。一見、不釣合いの大きさの窓も、こんな目的があった。昔人の風流の奥深さが偲ばれるのである。
